中卒人間の人生賭博月刊誌

大学受験までの日々を。何も変わらない日常に色を付けるために、少しでも記録しておくために。

束の間の癒しか、不安か。

日曜日。梅雨の時期だが数日の晴れ間に心を躍らせ日常を送る。

雨だと多少なりとも濡れるし、移動に不便を生じるし、傘があるだけで面倒なことも多い。

そんな生活も少し休憩し、青空の下を歩くのはやはり清々しい限りだ。

そして苦悶が多い毎日の癒しとなるのが日曜日。7月からは日曜日も塾に通うことになるが、それまでは同じことの繰り返しの毎日とは違う解放感が私を覆う。

そして日曜日の夜に深く落ち込むのである。原因は二つある。一つは私にとって有意義な時間(勉強をすること)を過ごせなかった後悔と、もう一つは月曜日からまた始まる苦悶の日々への不安である。

どちらかと言えば前者が多くを占める。勉強から距離を置くと自問自答するのだ。

「お前がさぼっている間にやってるやつはいるぞ。そんなんで落ちても当然だな。」

「今までやってきた事の復習もせずに、まったく無駄な時間を送っているな。」

などと自分の心の中の絶対的な模範意見と、不安や焦りから生じる精神への締め付けの唯物的な意見が私を襲う。

堕落した日常は一人暮らしの時に充分過ごしてきたので、それに対する恐怖感が常に付きまとう。

確かに焦りはあるしやれと言われれば何も言い返せないのだが、体がそれを受け付けないのだ。拒絶反応を起こし、こうして私をPCの前に誘うのである。

だからこうしてブログも更新できるのだが…

複雑な心境である。しかしこのブログは他者に見て貰いたくて書いてるわけでもないし、こうしてPCの前で黙々と思うことを書き連ねるのがとても意味のある事(心的に)だと思っている。だいたい一回の記事は1000字程度と決めているし、その字数の中で如何に魅力的な文章にできるかなんかも考えながらやると面白いものである。

絶賛浪人生、人生すでに崖っぷちの私に残せるものなどこのような取り留めもない、何の役にもたたない文章ぐらいしかないのだ。個人情報も載せてるわけでもないし、同情を媚びるわけでもないし、心を無にして書き、素直に現実と対面するようなツールとして自分が有効に使っているのだ。

 

気が付けば日をまたぎ、もう月曜日だ。

すぐにでも風呂に入り眠りにつかねばならない。刹那の癒しではとてもではないがやっていける気がしない。しかしこの試練を超えれば何年後かには幸せを得ることができるはずだと妄信している。苦労は買ってでもするべきだ。今まで10代には重すぎる苦労も自ら買ってきた。トンネルの出口はすぐそこだ。日曜日よりの使者よ、私はもう行くよ。

欲望と陰鬱。

人は欲望を持たないと生きてはいけない。欲望と言っても様々な種類に分けられるが、無欲な人と言われている人でも多少の、人には言えないような欲もあるはずだ。

無欲の極致は呼吸そのものすら欲と捉え、そのような人間の行き着く先は死しかない。

 

俺は俯瞰で見たら欲は他人よりも大きいしその現実味が薄い人間である。欲は生きるための重要な栄養であり、それは偏るとたちまち自我を侵す毒薬になる。しかし時には現環境や心情に作用をもたらす妙薬ともなり得る。人間の一日における心情の変化は莫大であり、それを己の頭が無意識のうちに行動につなげるように命令する。それにより常人の思考を超えた行為をとったりして、理性の統制がとれなくなる。頭と感情が完全に分離した人間の末路は哀れなものである。例を挙げると性犯罪者や殺人犯、ストーカーやニート、そして自殺者である。

 

先ほどの自分の言っていることと矛盾をしたものがでてきた。自殺者。

死に至る方法は様々であり、それらが欲からきたものか無欲から滲み出たものかは分からないが、帰結するのは死でありそれは変わらない。そして彼らが何を思い死んでいったのかを残された人間が理解することは不可能である。

人生は遠くから見れば喜劇であり、近くから見れば悲劇である。

こんな言葉に見覚えがある人は少なくないだろう。母親の体の中から出てきて、孫に看取られて息を引き取るまでの過程を人生としたら、出発点は本人は記憶になく周囲の者からすれば幸せである。終着点はまだ死んだことがないから分からないが、各々考えてみてほしい。多分ほとんどの人が幸せを嘗め尽くした直後に死にたいという願望はあるだろう。願望は欲ではなく曖昧な自己肯定なのでここで欲望という言葉を用いては、語弊がありそうなので控えておく。我々はいつ死ぬかなんて予想もつかないし、かえってそれが生きる活力を見出しているのかもしれない。死生観を極めることは人類にとっては不可能な事象であろう。そしてそれを考えようとすると天は邪魔しようとする。鬱で人間の通常の理性と離れていることを警告する。

 

ただ、だからと言って死ぬ間際での願望を考えないのも可哀そうな人生である。劇的に死にたいのならそのように死ぬために今を生きねばならないし、幸せを嘱望するのならそのために今できる限りの苦労をする必要がある。

 

 

 

こんな題材をなぜブログにしようと思ったのか自分でもよく分からないが、己の欲望に逆らわずつらつらと書いてみた。最後に参考書に載っていた一休の語録でも書いて、この陰鬱な文章の結びとさせてもらいたい。

 

 

花は桜木、人は武士

 

この日々の意味。

4月。時代とは少し距離のある日常においても、時世には逆らえない。緊急事態宣言の影響で塾は休校。居心地の悪い実家で参考書と睨み合いをしないといけない日々。

大学受験が終わればこの鬱々とした気分も晴れるだろうと思いながら日々を送る。

しかしそれが訪れるのは遥かに先の事である。そしてその最低条件に大学合格という人生において価値のある切符を手に入れないといけない。

極度のストレスと不安と恐怖が俺を襲う。耐えるだけの受け皿はもはやいっぱいになっており、その皿に亀裂でも入れようと精神崩壊の試みも幾分かしている。

最近の情熱の持続方法としては、恋をしてみたり(受験期なので無論叶わぬが)司馬遼太郎の本を物色したり、タバコをふかし孤独に浸ったりをしている。

こんな糞くだらない道楽でも日常に色がつけれるので自分は恵まれているななんても思っている。

 

そして道楽後に訪れる不安の中に、この日々の意味を模索しようとする感情が生まれ始めている。恐らくこの先緊急事態宣言は延期され、塾にも行けずにひたすら己と戦う日々が続くだろう。そしてその日々は将来の自分にとってどのような価値を見出すのだろうかと考えるのである。一年後自分の理想通りの結果に終われば価値は存分にあったと言えるだろう。しかし夢破れ、自刃しなければいけない結果となったらこの日々は後悔されるだろう。そんなことを考え、一日の重みを知る。あっという間に過ぎ去る一日を無為な時間にはするまいと気持ちが高揚する。

 

が、こんなに気持ちだけ奮い立っても行動に現れないのが俺の短所であり、直さなければならないとこである。気合を入れても忍耐力が無い限りそれは妄想で終わる。すぐに気晴らしを求め、惰性になる。毎日気合を保ち続けれる人間は本当に尊敬に値する。情熱の沸点は低いが、低いからこそすぐ冷める。哀れだと自分でも思う。思い返せば一日を全力で終えた試しなんかないのである。身近に支えあう友人もなく、家庭環境も最悪。不必要なストレスまでのしかかってしまう。

だがやらねば落ちる。人生も終わる。幸せも掴めぬ。何も成せない。

後が無いこの人生に誇りを取り戻すために、一心不乱に猛進することこそ最大の幸福を得られる近道だと信じ、肉を切らせて骨を断つ努力をする。

勿論骨とは志望校合格であり、肉とはこの凄まじく醜い日常である。

これをふたたびことわざに戻すと、腐肉を切らせて岩骨を砕くとなるだろう(笑)

哀れな人生を抜け出すために、試練を食らっていかねばならぬ今日この頃であった。

変わらない日常。

世間とは少し離れた生活を送り、日常でテレビも見なくなってから半年が経つ。

世間話に花を咲かせることもできず(もっとも気楽に話せる友人など数少ないのだが)冷めた感情で人と接し、己の苦悶の吐き場所さえ一杯になっている。

毎日同じような課題をこなし、同じ時間に飯を食い同じ時間に寝て起きてを繰り返すと、感情がいつ暴発するかということが分からなくなってくる。つまり、理性を保つことが難しくなってきているのである。精神が音を立てて瓦解していくのを毎日聞いている。

 

こんな時に想うのが過去の人間だ。日本史に登場してくるような偉人でもいいし、時代の潮流に飲み込まれた人たちでもいい。

特に戦争期などの激動の時代を過ごした人間なんかに同情すると、自分なんかまだまだだと思えるようになってくる。

個人的には幕末から日露戦争終結までの潮流が好きだ。あの時代は上を向いているから美しいが、下をみれば屍山血河であっただろう。数々の屍の上に日本という国が成り立った時代ほどロマンを感じるものはない。

 

そんな時代が次いつ訪れるかも分からないが、俺が生きている間に激流があるならば、彼らのような屍になることを望む。その為に今やるべきことをつらつらとやっている。

苦しい人生こそ素晴らしい。人の一生など夢幻のようなものだ。

また明日も、変わらない日常。