中卒人間の人生賭博月刊誌

大学受験までの日々を。何も変わらない日常に色を付けるために、少しでも記録しておくために。

欲望と陰鬱。

人は欲望を持たないと生きてはいけない。欲望と言っても様々な種類に分けられるが、無欲な人と言われている人でも多少の、人には言えないような欲もあるはずだ。

無欲の極致は呼吸そのものすら欲と捉え、そのような人間の行き着く先は死しかない。

 

俺は俯瞰で見たら欲は他人よりも大きいしその現実味が薄い人間である。欲は生きるための重要な栄養であり、それは偏るとたちまち自我を侵す毒薬になる。しかし時には現環境や心情に作用をもたらす妙薬ともなり得る。人間の一日における心情の変化は莫大であり、それを己の頭が無意識のうちに行動につなげるように命令する。それにより常人の思考を超えた行為をとったりして、理性の統制がとれなくなる。頭と感情が完全に分離した人間の末路は哀れなものである。例を挙げると性犯罪者や殺人犯、ストーカーやニート、そして自殺者である。

 

先ほどの自分の言っていることと矛盾をしたものがでてきた。自殺者。

死に至る方法は様々であり、それらが欲からきたものか無欲から滲み出たものかは分からないが、帰結するのは死でありそれは変わらない。そして彼らが何を思い死んでいったのかを残された人間が理解することは不可能である。

人生は遠くから見れば喜劇であり、近くから見れば悲劇である。

こんな言葉に見覚えがある人は少なくないだろう。母親の体の中から出てきて、孫に看取られて息を引き取るまでの過程を人生としたら、出発点は本人は記憶になく周囲の者からすれば幸せである。終着点はまだ死んだことがないから分からないが、各々考えてみてほしい。多分ほとんどの人が幸せを嘗め尽くした直後に死にたいという願望はあるだろう。願望は欲ではなく曖昧な自己肯定なのでここで欲望という言葉を用いては、語弊がありそうなので控えておく。我々はいつ死ぬかなんて予想もつかないし、かえってそれが生きる活力を見出しているのかもしれない。死生観を極めることは人類にとっては不可能な事象であろう。そしてそれを考えようとすると天は邪魔しようとする。鬱で人間の通常の理性と離れていることを警告する。

 

ただ、だからと言って死ぬ間際での願望を考えないのも可哀そうな人生である。劇的に死にたいのならそのように死ぬために今を生きねばならないし、幸せを嘱望するのならそのために今できる限りの苦労をする必要がある。

 

 

 

こんな題材をなぜブログにしようと思ったのか自分でもよく分からないが、己の欲望に逆らわずつらつらと書いてみた。最後に参考書に載っていた一休の語録でも書いて、この陰鬱な文章の結びとさせてもらいたい。

 

 

花は桜木、人は武士